つまみ食い職人とはどういう人生を歩んできたのか

 

こんにちは。つま職です。

 

とあいさつをしましたが、

「つま職ってなに?」「どんなやつなの?」「具体的になにすんの?」

という疑問にお答えをしようと思います。

 

詳しくはこちら

🍴あなたの仕事つまみ食いさせてください 🍴

 

つま職がどのような人間なのかを紹介したいと思います。

 

幼少期(生前〜幼稚園)

 

 

角田家待望の第一子。

東京都(東村山市/豊島区のハーフ)の純血として生まれた。

2340グラムと小さめ。

その小ささとは裏腹にやんちゃでとにかく動き回っていた。

昼寝を取ることも少なく、元気な男の子であった。

そのせいか現在は睡眠に追われる日々。

生まれた時から身体が弱い。風邪やオタフクなどすぐに様々な病気にかかった。

生まれる直前までドイツにいたという逸話がある。

そのため、早く生まれていたらドイツ国籍を持っていたかもしれない。

幼稚園時代

 

  

 

一番最初の記憶は実家の階段から落ちたとこ。

レゴブロックを父親に見せようとして、階段を踏み外して落っこちた。

同年代に比べると少し成長が遅かったため、年中から幼稚園に入学。

割と好き勝手やっていたらしい。

友達を階段から突き落としたり、幼稚園の先生にはかんちょうをしたり。

イタズラ好きのやんちゃな子供だった。

お絵かき教室に週一回通っていたが全く才能がなく、卒園とともに辞める。

スイミングスクールには足しげく通った。

2才から始め、中学1年生まで続けた。

 

その他年一回のスキー教室がとても楽しみだった記憶がある。

運動神経は決して良い方ではないが、スキーと習っていた水泳だけは人並みより少しできた。

 

 

小学生時代

 

    

 

成績は平均より少し上。それなりに勉強はできた。

この頃は先生にいかに怒られないか、むしろ褒められるかを中心に考えていた。

どうすればいい成績をとって、普通でいられるかをずっと考えていた。

優等生になりたかったのだと思う。

その反面、同じクラスにとてつもなく勉強ができる友達がいた。

僕は悟った。このままではこいつには勝てないと。

そこで勉強ができるただの少年ではなく、目立つことに移っていった。

学級代表である。代表という言葉に取り憑かれたかのように様々な代表に就いていった。

学級代表やクラブの代表などを歴任し、目立ちたいという欲求を満たしていった。

そして徐々に目立つ楽しさを知った。

目立つこと=いいことという構図が出来上がっていた。

 

中学生時代

 

 

 

相変わらず勉強はそこそこで目立つことが好きであったが、それが裏目にでる。

本格的ないじめにあった。

本当に毎日が辛かったが、

こいつらは俺のことが好きすぎて攻撃してるんだ。無関心よりは全然いいや。

と思うようになり、それ以降なにも感じなくなった。

というよりいじめているやつらをかわいく思うようになり、仲良くなった。

(本来であれば支えてくれる人がいたから立ち直れたという美談があればよかったと思うが。)

そこから周りを気にしなくなった。おそらく中学2年生の頃だと思う。

 

中学生では友達に誘われ、バレーボールを始める。

センスは全くなかったが、人一倍負けず嫌いだったためかレギュラーに。

一方、友達は3日で退部していた。

 

部活動でそれなりに頑張り、2年生の頃には東京都でベスト16。

引退する3年生時には全国大会常連と一回戦であたり、

ボコボコにされ、笑顔で引退。

 

引退する前から進路は決めていた。

通訳になりたいと。

中学に入り、初めて英語というものに本格的に触れ、その実用性に感動した。

母の友達が外国人が多かったというもの理由に上がるかもしれない。

(上記のバレー部に一緒に入った友達もハーフ)

また、おそらく相性が良かったのか、成績もそこそこ良かった。

高校では少し変わったところを目指したが、あえなく撃沈。

埼玉の飯能にある聖望学園へ。

 

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高校生時代

 

  

すでに真面目一辺倒に生きるのに飽きてしまっていた。

しかし、学校の校風としてそこまで、変わっていなく、いわゆる進学校(神学校)であったため、

成績がいい、模試での偏差値が高い=いい人間という構図がさも当たり前かのようにできていた。

勉強は嫌いではなかったので、そこそこの成績をおさめていたと思う。

むしろ学校内では良かった方だったのかもしれない。

受験を本格的に意識する前から外大に行きたいとずっと考えていた。

ただどうしてそこまでして英語に固執するのかと言われるとわからなくなり、

初めてこの時になぜ英語が好きなのかということを一生懸命に考えた。

行き着いた答えとしては

英語は実用的な勉強である→世界中の人と話したい→人と関わるのが好き

というところだった。

 

そのため、英語(外国語)でなくても良いのではないかと考えるようになった。

そこでそれまでの進路を変更し、心理学を選んだ。

そこまでは良かった。おそらく良くある話だと思う。

 

しかし、3年生の時に展開は変わった。

今考えればあの出来事が自分の高校生活を変えたのかもしれないとも思う。

前述の通り、自称進学校であるため、クラスも成績順で振り分けられている。

私はそこまで成績が悪いわけでもなかったので、当然のように一番上のクラスにいた。

ところが、2年生が終わり、春休みを終え、3年生の初登校の日、事実を知った。

なんとクラスを落とされたのである。

 

これまでそこそこできていたため、それなりにプライドはあった。

しかし、クラスを落とされたことでそのプライドはズタズタになっていた。

あの時は平然を装っていたが、内心めちゃくちゃ動揺し、ズタボロだった。

当時の先生に直談判しに行ったが、

「こっちの方が燃えると思って」としか言われなかった。

 

その時点から他人と比較して頭がいいとか、お利口とかいう概念を完全に失った。

自分は自分のやりたい道をやりたいだけ突き通すと決めた。

小学生の時は基準であり、これまでどこかで気にしていた親の目や先生のご機嫌取りなど

他者からの評価はもう気にしないと決めた。

 

受験の結果はそこそこであったが、希望していた心理学を学べる学部には進むことができた。

 

大学時代

 

高校時に他者の目を気にしないと決めたものの、まだまだ人には関心があったため(心理学専攻だし)、

目立つことをしたいと思い、マジックを始めた。

もともとはバレー部に入りたかったが、タイミングやフィーリングが合わずに、入ることを諦めた。

 

大学生活なにがメインだったかというと明らかにマジックだと思う。

発表会が近い日には、朝から晩まで練習をし、手順を考え、

ろくに授業に行かない日もあったが、学べることは多かったと思う。

 

特に大学のマジックサークル連盟では代表もやらせてもらい、

そこで改革がいかに大変か、人についてきてもらうのはいかに大変かなど

組織というものを学ぶことができたと思う。

新しいことに挑戦する時の意思統一やモチベーションの維持、

セルフマネジメントの難しさも実感した。

 

この時にやはりやりたいようにやるのはいいが、

最低限のところは守らないといけないものもあると学んだ。

 

マジック漬けの日々を3年間。

今思えばよく辞めなかったと思うが、やることが毎年異なることが功を奏したのだと思う。

 

そして就職活動。

なんの迷いもなく、大学卒業は働くものと考え、行っていた。

むしろ周りより真面目にやっていたと思う。

根は真面目だからこういう時に発揮してしまう。

説明会だけでも60近く行き、どんな企業が合うのかひたすら日々見ていた。

当時はそこまで売り手でもなかったので、たくさんのお祈りメールがきた。

企業側に合わせて動いていた。

言い訳になると思うが、毎日の就活の中で疲れていたのか、

他人の目を再度意識するようになってしまっている自分がいた。

 

ただ他の人とは違うことをしたいという意識だけはあり、ベンチャー企業ばかり受けていた。

選ぶ基準はベンチャーかどうか、拡大していく見込みがあるかどうかだけだったと思う。

 

そんな折に1社ベンチャー企業から内定をもらい、いくことに決めた。

そこまでその会社が好きということではなく、働いているうちに好きになるもんだと思っていた。

 

内定承諾後すぐにインターンが始まった。

ベンチャーで良くある内定者インターンというやつだ。

プログラミングの勉強や不動産業界の知識、テレアポなど、

この企業で働くための知識を習得し、段階を経て、営業配属となった。

 

すでにこの頃には感じ始めていたが、いわゆるブラック企業であった。

ブラック企業の定義は人によって異なると思うが、働く時間が明らかに長く、

隣のエンジニアは長時間労働で船を漕いでいるのが日常茶飯事。

営業は怒られてナンボ、数字がないやつは人格がない、数字=人格だと教え込まれていた。

一つ上の先輩にこうしろ、ああしろと言われ、

そこまで変わらないのになと感じながらも、怒られるのを横で見る日々。

 

違和感しか感じなかった。

そして卒業の迫った4年生の2月。

誤解を恐れずに言うと逃げた。限界だった。

石の上にも3年というが、この会社で3年は無理だ。

3年経ったとしても他の企業で働く力はつかないと感じ、逃げるように辞めた。

 

当時の攻防は今での覚えている。

たかが新卒にあそこまで時間をかけてくれるのは今考えてみてもありがたいことだったのかなと思う。

辞めると伝えた当日。会社には行かなかった。

もし行ったとしたら、引き止められるからだ。

しかし、上司からメッセージが来て、

会社近くにあるファミレスでカジュアルに食べながら話そうと。

 

行ってみると

自分がいた子会社の取締役、別の子会社の取締役、直属の上司(マネージャー)と自分。

明らかに分が悪い。

 

思えばあそこで行かなければよかった。

タダメシ食えるなら行くかくらいの認識で行った。間違えだった。

上司だけならともかく上の2人が来てしまってはどうしようもない。

ドリアを頼んだが、一口も食べれなかった。

 

グリップの嵐。

初めはなんで辞めるの?から入り、もっとこれできるよ!とかこうしてみたら?というところから始まり、

徐々にエスカレートし、人間性の否定までされた。

お前なんかどこ行っても通用しない!と

そりゃそうだ、まだ新卒だし、これで通用するなら世の中ちょろすぎる。

そんなことくらいわかってる。

 

9時くらいから始まったこの地獄も12時を回り、店が閉店。

そこで終わりかと思ったら、向こうは諦めなかった。

会社に戻るぞと。

意味がわからない。

 

すでに3時間やってNOって言ってるんだからNOでしょ。と思いながらも、

会社に戻り、そこから朝5時まで監禁。

戻って働くという質問にYESというまで帰らせてもらえなかった。

ポジションどりもミスり、逃げられない状況だったため、

わかりました。考えます。

と言って帰してもらった。

 

次の日、電話が来ていたが、シカトをして辞めることに成功した。

その前日の辞めると決意した時にはすでに留学に行くことは決めていた。

理由は2つ。

 

中学生の頃よりずっと行きたかった(そういえば感はあるけど)海外に今行かなと後悔すると思ったから。

もう一つは単純に海外で生活をしてみたかったから。

 

この時に上記の考えを武装して親に相談した。

絶対にNGがくると思ったが、意外とすんなりOKをもらえた。

思えば人生で初めて親に相談をした瞬間であった。

中学で部活を決める時や高校受験の志望校でさえ、一回も相談せずに一人で決めていた。

親不孝な息子である。

 

あとで聞いた話だが、インターンをしていた内定先がブラックであるということは親も薄々感づいていたらしい。

そこで息子の決断を良しとしたのだろう。

親に救われた瞬間である。わがままな息子ですまん。ありがとう。

 

その後、留学先を急ピッチで探していた。

なにせすでに4年生の2月になっており、卒業まであと2ヶ月もない。

その時初めてワーキングホリデーというものを知り、留学というものを知った。

初めはイギリスに行きたかったが、費用と日程、ビザの全ての面で行けず。

結局、一番安く行け、なおかつ今からでも間に合うフィジーという国に留学することを決めた。

そして、新卒を蹴った。

 

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社会人

 

フィジー留学

 

社会人という枠にしたが前述通り、まだ学生、留学生である。

もちろん初めて異国の地で生活することになった。

フィジーは海がきれいなことで有名である。

最近だとリオのオリンピックで正式種目となった7人制ラグビーの初代王者という点でも有名である。

なんとなく知っている方もいると思うが、いわゆる発展途上国である。

電気ガス水道は通っていないところの方が多い。

年中暑いがクーラーがない家が多い。

電気や水道も雨が降れば止まることも多く、雨の日は携帯の電波が飛ばない。

そんな国である。インフラはギリギリあるという国である。

 

そんな国で暮らしてみると幸せのレベルが格段に下がった。

今日は晴れていてWi-Fiが使えるから幸せ、

美味しいご飯が食べられて嬉しいなど、

いい意味で幸せの価値基準が下がった。

これは後々本格的に気づくことになる。

 

そんな国で唯一楽しいことと言えば授業。

本当にうまくできていると思う。

娯楽が本当になく、ご飯もそんなに種類がないため、勉強せざるを得ない。

そもそもそういう理由できている人がほとんどだと思うが、

さらに追い込まれ、いやいやではなく、やることがないため、勉強する。

すると自然と英語力が付く。

 

たまに海に行ったり、映画館に行ったり、首都に行ってみたりしたが、

やれる娯楽は限られている。

 

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オーストラリアワーキングホリデー

4ヶ月の留学後、晴れてフリーターになった。

オーストラリアでのワーキングホリデーをスタートさせたのである。

初めの地はケアンズ。

選んだ理由は大したことないが、稼げるらしいから。

オーストラリアに関するブログを書いている人は多いが、情報が不確かすぎる。

書き手はもちろん、読み手の英語力にも関係するため、

正確な情報は事前に仕入れにくい。

 

結局ケアンズに行き、仕事が決まったと思ったら、当日出勤前にやっぱいいやと言わたりしたが、

最終的には仕事も見つかったし、友達の紹介によりダブルワークもできた。

ケアンズでは様々なチャレンジもやってみた。

Youtuberやってみたり、ブログ書いてみたり、日本では絶対にやらない経験をした。

アイデンティティーや自分で生活するというサバイバルスキルが身についた。

 

半年のケアンズ生活を終え、ブルームに向かった。

途中フィジーの友達に再会をしたり、観光をしたりした。

 

ブルームという地は昔日本人が真珠をとっていたことでとても有名な町であった。

今は日本人はおろか他の国のワーホリメーカーに聞いても知らない人が多い。

オーストラリアの特徴としてめちゃくちゃ地方に行くと時給が高いということが挙げられる。

ブルームはそのめちゃくちゃ地方に値するため、時給が高い。

しかし、仕事は少なく、家賃も高い。

どこに折り合いをつけるかは自分次第であるが、

誰も行ったことない知らない場所ということで行ってみたかった。

 

ブルームは一言で言うならば、砂漠である。

暑い。ひたすら暑い。湿気はないがほとんど雨が降らない。

しかし、海がきれいなところである。

 

そこではオーストラリア人がオーナーの日本食レストランで働いた。

日本食レストランといっても高級なものではなく、

創作されまくった寿司やラーメンなど日本料理と呼べるかギリギリのものを提供している店である。

 

そこではよくわからない日本語で指示をされたが、

なんとかついていったと思う。

ブルームの地で始めた大きなことは

“Doing Anything $10/day”である。

 

これがオーストラリアでの経験のほとんどと言っても過言ではなかった。

簡単に言うと『どんな仕事でも1日10ドルでやりますよ』と言うものである。

 

地元のフェイスブックグループに投稿したら、炎上した。

当時の炎上の写真はないが、1200くらいのリアクション、500くらいのコメントがきた。

いいもののあれば、悪いものがあったが、作戦は成功し、その日以来忙しくなった。

庭掃除、犬の世話、ベビーシッター、壁掃除、日本語教師、引越しの手伝いなどなど

様々な経験の中で一つ気づいたことがある。

時給1000円でやるといかにサボるかしか思いつかない。

しかし、1日10ドルでやるとどうせなら頑張ろうと逆にやる気が出てくる。

これは面白い発見だった。

ブルームを出た後も、シドニーやメルボルンでも行った。

その後、ニュージーランド一周を経て1年半ぶりに帰国した。

 

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一時帰国

そして、某薬局で英語担当としてアルバイトをしながら、

転職活動をした。

 

日本に対する景色が全く違った。

これまでは全てが当たり前だと思って過ごしていたが、

これだけ発展した国であるということを始めて認識し、

日本人であるということを始めて深く認識した。

 

インドネシア

 

 

アルバイト・就活を1ヶ月で終え、今度はインドネシアに行く。

フェイスブックで知り合った友達がインドネシアに留学生を派遣したいらしく、

第一弾として行くことになった。

インドネシアはなにも前知識がなく、全く知らない国であった。

パレという第二の都市スラバヤから車で5時間のところに3週間ほど滞在した。

行ってみて感じたことは日本に対する憧れの強さ。

本当にこれは心から感じた。

日本人(外国人)が珍しいということもあったかもしれないが、

3歩歩くと写真を撮って、5歩歩くと話が止まらなくなる。

日本がいかにすごい国であるかということを再認識した。

 

真-社会人

 

 

その後帰国し、外国人専門の人材紹介を行った。

理由は2つ。

 

留学先での彼らの熱狂を潰したくない。

もう一つはオーストラリアで受けた人種差別である。

前述の”Doing Anything $10/day”を行った時に、

頭おかしいじゃないのクソジャパニーズが

などの暴言もたくさんあった。

人種差別が少ないと言われているオーストラリアでも少なからずあることは理解した。

そこで日本に帰ってきた時に日本人の外国人に対する目がより厳しいことがわかった。

どう考えても今後日本には人手不足が加速するため、外国の方に働いてもらわなければ困る。

ということを頭では理解しているが、なかなか踏み出せない企業が多い。

これを後押ししたいと感じたためである。

 

1年働いて感じたことがある。

個人スキルがそこまで上がっていないこと。

売り上げを上げられる=個人スキルが高い人

という構図でないことに気づいた。

それに今フリーでやってみても

そこまでダメージがないということも後押しになった。

むしろ今やらなければ、今後絶対に後悔すると感じた。

やらない後悔よりやった後悔。

独立を決意した。

 

現在

そして現在はつまみ食い職人として独立したのである。

現在は-LiCoD-リコード20160323aという雑貨屋さんを経営しながら、

スタートアップの仕事を受けている。。。。

To be continued…..

 

 

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